現在、北野ではオリーブによる街の景観づくり活動を行っています。
それは何故でしょうか?
神戸と北野の歴史を振り返りながら、何故、今、地域でそのような活動をしているのかご紹介してみたいと思います。
時は幕末、尊王攘夷の時代です。
兵庫開港要求事件を受け、1867年5月幕府は兵庫大阪規定書を結び、神戸港開港に伴い居留地を生田川と神戸村の浜側と決め、居留地整備をスタートさせました。
そして、予定通り1868年1月1日に兵庫(神戸)開港となりますが、全てがドタバタの中での決定だったので居留地整備が全く間に合いません。そんな状況の中、現在の大丸元町店北側にある三宮神社の前で、備前藩の隊列の前をフランス人水平が横切り銃撃戦に発展するという大事件(神戸事件)が発生してしまいます。
その時、兵庫開港を祝って集結していた西欧列強の艦隊が緊急事態を通達、生田川の河原で銃撃戦になる等、居留地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕するなど、あわや戦争という事態にまで至りました。
その時、英国留学の経験がある伊藤俊輔(後の伊藤博文)が通訳にあたり折衝に当たるも決裂に至りましたが、急遽開国和親を朝廷より宣言したうえで、明治新政府への政権移譲を表明し、五代才助(後の五代友厚)、伊藤俊輔が粘り強く交渉し、最終的に備前藩が諸外国等の要求を受け入れ、列強外交官列席のもとで当事者を切腹させる等により一応の決着をみることとなりました。
こんな状況の中、開港を契機にどんどん神戸に押し寄せてくる外国人に対して居留地整備が全く間に合わないので、伊藤俊輔が苦肉の策で、東は生田川から西は宇治川まで、南は浜から北は山辺までを雑居地として指定し、従前の日本人の住んでいる所に、外国人が混在して住むことを認めました。このような雑居地は世界的に見ても珍しく、当時神戸以外で現地人と外国人が混在して住むことが認められた街はほとんどありません。
余談ですが、この後、伊藤博文は初代兵庫県知事となりますが、その時若干26歳。後に44歳の時に初代内閣総理大臣となります。今の感覚だとその若さに驚きますが、このように当時の日本は若者が国や時代を引っ張っていたことがわかります。
さらに余談ですが、ペリー来航から日米和親条約、日米修好通商条約と、日本が開国に至る過程で中心的存在だったアメリカが、その後の動きの中ではあまり出てきません。実はその頃、アメリカは南北戦争の真っ只中で、自国の事が大変で、遠い外国の事に構っている余裕が無かった為と考えられます。
これが明治2年、北野村から南を見渡して撮影した写真です。
真ん中にあるこんもりとした森が生田神社のある生田の森。その向こう側のまだ何も建っていない居留地の先に海が見渡せます。生田の森の左に見えるのが明治初期にあったという競馬場。現在の東門筋は、この競馬場の名残と言われています。
この写真を見てもわかる通り、当時の神戸はほとんど何もない所でした。
外国人居留地が出来たことから神戸の町は発展しましたが、雑居地「北野」は居留地とは全く異なる文化を生み出しました。
そして北野では、外国人が日本人と共に時を重ねていきました。
まさに、異人館のある街北野は、近代神戸の歴史そのものと言えます。
数多くの異人館が立ち並んでいることがわかります。
これは昭和の時代の北野町の写真です。
北野町を題材に、数多くの作品を残した小松益喜画伯の写真も残っています。
かつての北野は、外国人が普通に居住する静かな住宅街でした。
居住する外国人が道を行きかう日常が、当時の北野にはありました。
北野町には定住外国人が住み着くことで、狭い範囲に様々な宗教施設が集まっています。
いわゆる神社や仏教寺院は当然の事ながら、カトリック教会、ユダヤ教会、ムスリムモスク、ジャイナ教会等々、様々な宗教施設がこの狭い範囲に集まっています。さながら世界平和の縮図のような現実が、ここにはあります。
そのような静かな日常を一変させたのがNHKの朝のテレビ小説「風見鶏」でした。
北野町とオリーブに何の関係性があるのでしょうか?
それは、北野に日本最初の国営農業試験場「神戸オリーブ園」あったからです。
「神戸オリーブ園」って何? それでは詳しく見ていきましょう。
先述のような過程を経て、明治の開国により、日本は世界にデビューしました。
その一環として打ち出されたのが勧農政策です。勧農政策は大久保利通内務卿と経済官僚の前田正名主導の元、輸入抑制と輸出促進を進め、外貨獲得の具体的施策として強力に進められました。まずは輸出の可能性のある植物が、様々に試験栽培されることになりました。
明治政府の大いなる意思の元、神戸地方に暖地植物栽培試験地が設置されました。
農業試験場を設置して、オリーブ、ゴム、オレンジ、レモン、ブドウ、ユーカリの六種類を試植したところ、オリーブのみが土質に適応し、将来普及が期待されたので、明治12年に神戸オリーブ園を開園することになりました。
この時に活躍したのが、先程も経済官僚として紹介した前田正名。
薩摩藩の藩医の子として生まれた前田正名は、青年時代五代友厚に出会い多大な影響を受けます。そして薩長同盟の密使に加わり坂本龍馬から短刀を貰ったと言われています。その短刀を携えフランス遊学し、フランス滞在中に普仏戦争でパリ市民として参戦しています。戦後、そのままパリに滞在し、パリ万博日本事務所の雇員、内務省勧業寮御用掛を務めた後日本へ帰国して、様々な政府の要職とともにパリ万博事務官庁を務め、三田育種場を創設して初代場長となりました。
もう一人のキーパーソンが福羽逸人です。
果樹園園芸学者の福羽逸人は新宿御苑、須磨離宮公園や栗林公園、日比谷公園等の庭園設計や日本のいちごの父として有名ですが、神戸オリーブ園で育ったオリーブで、日本で初めてのオリーブ搾油に成功しました。
福羽逸人が搾油したオリーブ油は、来日中の外国人から非常に高い評価を得ました。
福羽逸人は、後年小豆島でオリーブが栽培されることになった時、小豆島にオリーブ搾油の技術を伝えたことでも知られています。
この神戸オリーブ園が明治初期に存在していたことは専門家の間では知られていましたが、長年その場所は不明でした。近年、神戸大学の中西テツ名誉教授の研究により、国立公文書館収蔵の公文禄等を調べる中で、神戸オリーブ園の所在地や形状がわかりました。
神戸オリーブ園は、現在の神戸北野ホテル及びその南にある合同宿舎の場所にあり、現在でもほぼ当時の形状がそのまま残っていることがわかりました。
神戸オリーブ園は、当時の写真にも残っていました。
居留地と北野町は三ノ宮筋(現トアロード)で結ばれており、その道路に面して神戸オリーブ園は設けられていました。
この写真を拡大すると、オリーブの木が写っています。
神戸オリーブ園は前田正名が持ち帰った苗を使って明治12年に開園しました。
神戸オリーブ園は山本通り6丁目あたり(現在の神戸山手女子高校あたり)にも拡大しましたが、明治初期の戊辰戦争から西南の役に政府が多大な戦費を使ったこともあり、貨幣インフレ対策として松方財政においてデフレ緊縮財政政策が取られ、経費削減の為に明治19年には前田正名に委嘱されることになりました。
戊辰戦争では多くの国民の血が流され、その鎮魂の目的で設立されたのが靖国神社で、湊川神社は靖国神社の兄弟社にあたります。大政奉還や無血開城から、明治維新はスムーズになされたようにイメージしがちですが、実際は多くの国民の血が流され、多大な戦費が費やされて成し遂げられました。
オリーブ園はその後売却され、どこに存在していたのかわからなくなっていました。
明治の神戸には、オリーブが庭木に実る情景がありました。当時の記録では、オリーブが人家の庭にも点在し、よく結実していたと記されています。このように、明治の神戸の人々が、オリーブを庭木にしていたという情景は、神戸オリーブ園の置き土産というべきかもしれません。
そして現在、当時を記憶するものとしては、湊川神社にあるオリーブの木があります。湊川神社のオリーブの木は前田正名がフランスより持ち帰った苗の一つが育ったもので、日本最初のオリーブ樹と言われています。
ただ、樹齢130年を誇る日本最古のオリーブの木が湊川神社に残っている以外、北野町からオリーブの記憶がほとんど忘れ去られてしまっていました。
様々な研究から、下記年表のような神戸オリーブ園に関する歴史が明らかになりました。
2013年、このような地域の歴史的背景を初めて明らかにした中西テツ神戸大学名誉教授の講演を契機として、地域としてオリーブを活用したまちづくりの機運が盛り上がってきました。
そこで、持続的な活動とするべく、2013年にインターナショナルオリーブアカデミー神戸を設立しました。
今までの10年にわたるインターナショナルオリーブアカデミー神戸の活動の中で、北野・山本地区の様々な所でオリーブの植樹がなされてきました。
北野坂の歩道の植栽にはオリーブが植えられ、オリーブのプランターも多数置かれています。また風見鶏の館の前や北野町東公園や山本通東公園にも、多くのオリーブが植えられています。オリーブの木は、何気なく見ていると気付かず見逃してしまいがちですが、注意して地域をみていただくと、思いのほか多くのオリーブが既に植樹されていることに気付かされることと思います。神戸北野ホテル前には、神戸北野オリーブ園のモニュメントが設置されています。
2023年はインターナショナルオリーブアカデミー神戸の活動開始から10周年となりました。
このように、約10年前、日本最初の国営農業試験場「神戸オリーブ園」が北野にあったことが明らかになり、その背景を追っていくと、明治初期、世界デビューしたばかりの、初々しい日本の姿が見えてきました。しかし、戦後、これらの歴史は市民から忘れられ、「幻のオリーブ園」と呼ばれていました。
オリーブ園の詳細がわかるにつれ、明治の先人が未来の国の発展を願い築き上げた史実が見えてきました。また、国際都市として共生・友愛のまちづくりを重ねた神戸の歴史と伝統を踏まえ、北野町ではオリーブによる街の景観づくり活動を行うようになりました。
以上のような経緯を経て、北野ではオリーブによる街の景観づくり活動を行っています。
インターナショナルオリーブアカデミー神戸は下記HPを作っておりますので、興味をお持ちの方は是非一度ご覧ください。
オリーブアカデミーで神戸北野のまちをオリーブ樹で緑化を!|インターナショナルオリーブアカデミー神戸 公式HP (olive-academy.jp)