2023年4月17日月曜日

北野町とオリーブ

現在、北野ではオリーブによる街の景観づくり活動を行っています。

それは何故でしょうか?

神戸と北野の歴史を振り返りながら、何故、今、地域でそのような活動をしているのかご紹介してみたいと思います。

 

神戸は明治以後に出来た、とても新しい街である事はご存じの方も多いと思います。
ここでは、その歴史を、もう少し詳しく見てみたいと思います。
1853年にペリーの黒船が来航しました。
そこで、1854年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約が締結されました。
いわゆる不平等条約と言われるもので、ここまでは多くの方々が学校の日本史で学ばれた記憶があることと思います。
その、日米修好通商条約で、1859年に横浜、長崎、函館の開港を、1860年に新潟、1863年に兵庫の開港が約束させられました。
横浜、長崎、函館は約束通り開港したのですが、京都に近く、朝廷のセキュリティ上の懸念から、兵庫の開港は反対の声が多く、予定より大幅に遅れる事となりました。
そんな状況に業を煮やした西欧列強は、1865年、とうとうイギリス、フランス、オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、兵庫の早期開港を迫るという兵庫開港要求事件が発生してしまいました。


時は幕末、尊王攘夷の時代です。

数百年にわたる鎖国により、全く外国人を見たことが無い日本の住民との衝突を避けるため、大和田の泊以来都市化が進み、当時人口2万人程度あった兵庫津を避け、東方にある神戸村に港を新設して、ここを開港することになりました。
この江戸時代の図でもわかるように、当時の神戸村は生田神社はありましたが、他には農家が点在する程度の寒村でした。

兵庫開港要求事件を受け、1867年5月幕府は兵庫大阪規定書を結び、神戸港開港に伴い居留地を生田川と神戸村の浜側と決め、居留地整備をスタートさせました。

さらに、同年6月兵庫開港勅許が出され、開港期日を翌1868年1月1日とすることが布告されました。
この年の11月に大政奉還があった事を考えると、本当にドタバタの中で決定されたことがわかります。

そして、予定通り1868年1月1日に兵庫(神戸)開港となりますが、全てがドタバタの中での決定だったので居留地整備が全く間に合いません。そんな状況の中、現在の大丸元町店北側にある三宮神社の前で、備前藩の隊列の前をフランス人水平が横切り銃撃戦に発展するという大事件(神戸事件)が発生してしまいます。

その時、兵庫開港を祝って集結していた西欧列強の艦隊が緊急事態を通達、生田川の河原で銃撃戦になる等、居留地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕するなど、あわや戦争という事態にまで至りました。

その時、英国留学の経験がある伊藤俊輔(後の伊藤博文)が通訳にあたり折衝に当たるも決裂に至りましたが、急遽開国和親を朝廷より宣言したうえで、明治新政府への政権移譲を表明し、五代才助(後の五代友厚)、伊藤俊輔が粘り強く交渉し、最終的に備前藩が諸外国等の要求を受け入れ、列強外交官列席のもとで当事者を切腹させる等により一応の決着をみることとなりました。

こんな状況の中、開港を契機にどんどん神戸に押し寄せてくる外国人に対して居留地整備が全く間に合わないので、伊藤俊輔が苦肉の策で、東は生田川から西は宇治川まで、南は浜から北は山辺までを雑居地として指定し、従前の日本人の住んでいる所に、外国人が混在して住むことを認めました。このような雑居地は世界的に見ても珍しく、当時神戸以外で現地人と外国人が混在して住むことが認められた街はほとんどありません。

余談ですが、この後、伊藤博文は初代兵庫県知事となりますが、その時若干26歳。後に44歳の時に初代内閣総理大臣となります。今の感覚だとその若さに驚きますが、このように当時の日本は若者が国や時代を引っ張っていたことがわかります。

さらに余談ですが、ペリー来航から日米和親条約、日米修好通商条約と、日本が開国に至る過程で中心的存在だったアメリカが、その後の動きの中ではあまり出てきません。実はその頃、アメリカは南北戦争の真っ只中で、自国の事が大変で、遠い外国の事に構っている余裕が無かった為と考えられます。

これが明治2年、北野村から南を見渡して撮影した写真です。

真ん中にあるこんもりとした森が生田神社のある生田の森。その向こう側のまだ何も建っていない居留地の先に海が見渡せます。生田の森の左に見えるのが明治初期にあったという競馬場。現在の東門筋は、この競馬場の名残と言われています。
この写真を見てもわかる通り、当時の神戸はほとんど何もない所でした。

 
これが明治5年の地図です。
先程説明した生田神社の東に競馬場があり、その東に生田川が流れています。
居留地の骨格も定まっていて、北野町あたりにちらりほらりと外国人が住みだしていることがわかります。ちなみに、この生田川はよく氾濫する川で、氾濫すると居留地に危険が及ぶという事で後年東の方に付け替えられ(現在の新生田川)ました。旧生田川の跡地が現在のフラワーロードで、道路沿いの土地を売却して河川の移設費用に充てられました。その移設事業を行った事業者の名前から加納町という町名はつけられています。
 

外国人居留地が出来たことから神戸の町は発展しましたが、雑居地「北野」は居留地とは全く異なる文化を生み出しました。

いきなり普通の農村の畑の中に、バラバラと住宅(異人館)が建設され、畦道が小径として利用されるようになりました。
外国人たちは、望郷の念から、港を見渡すことが出来るように、南向けに住宅を建設しましたが、日本人の民家と小径を挟んで隣り合うような形で、いきなり住みだしたわけです。
当然の事ながら、住んでおれば声が聞こえる、匂いがする、色々なものが目に見えます。
わからない言葉を話している、目の色の違う人、髪の色の違う人、肌の色が違う人がいることが次第にわかってきます。
日本ではお正月に餅をつく習慣がある一方、外国人はクリスマスにケーキを焼く。
日本の家からは醤油のにおいが、外国人の家からはバニラのにおいが漂ってくる。
毎日毎日がお隣さんで、日常的にかかわりあうわけですから、小径をはさんだコミュニティが自然発生的に生まれてきます。
このようにして、世界的にも珍しい、自然発生的な異文化交流が生まれてきました。

そして北野では、外国人が日本人と共に時を重ねていきました。

その事が 次第におおらかで多様性に寛容な文化をはぐくんでいきます。
このようにして、相互に生活文化が溶け込みあい、独自でエキゾチックなハイカラ文化が誕生してきたのです。

まさに、異人館のある街北野は、近代神戸の歴史そのものと言えます。

そして大正末年には異人館の数は300棟を数えるほどになっていました。
しかし残念ながら、現在は30数棟を残すばかりとなっております。

これが明治中期の北野町の写真です。

数多くの異人館が立ち並んでいることがわかります。

 
 
第二次世界大戦で、神戸は壊滅的な被害を受けましたが、北野町界隈には戦災を逃れた異人館が数多く残りました。これら、戦災を逃れた異人館が数多く残るエリアを文化庁が伝統的建造物群保存地区として指定し、独自の景観を保全するように現在も規制がかけられています。
 

 

これは昭和の時代の北野町の写真です。

北野町を題材に、数多くの作品を残した小松益喜画伯の写真も残っています。

かつての北野は、外国人が普通に居住する静かな住宅街でした。

居住する外国人が道を行きかう日常が、当時の北野にはありました。

北野町には定住外国人が住み着くことで、狭い範囲に様々な宗教施設が集まっています。

 いわゆる神社や仏教寺院は当然の事ながら、カトリック教会、ユダヤ教会、ムスリムモスク、ジャイナ教会等々、様々な宗教施設がこの狭い範囲に集まっています。さながら世界平和の縮図のような現実が、ここにはあります。


 そのような静かな日常を一変させたのがNHKの朝のテレビ小説「風見鶏」でした。

1977年、北野町を舞台として「風見鶏」が日本全国で毎朝放映されるや否や、一気に観光地として人気沸騰し、地域に猛烈な数の観光客が押し寄せました。
住んでいる家の中まで観光客が入ってくるなど、観光被害が深刻化し、地域の外国人が新神戸駅東側の住宅地等に数多く転出し、異人館の解体が進みました。
そのままにしていると、異人館の解体が加速的に進み、地域の持つ歴史的風致が不可逆的に失われかねないという危機感から様々な動きがあり、1980年に伝統的建造物群保存地区が指定され、1981年には地域団体の「北野・山本地区をまもりそだてる会」が発足しました。
「北野・山本地区をまもりそだてる会」は活動の一環として「花と緑を育てる運動」等を行っていましたが、1995年に阪神・淡路大震災に被災。この時にもいくつもの異人館が失われてしまいました。
1997年には阪神・淡路大震災の支援に対する感謝と、まちの復興を発信するため、「花と緑を育てる運動」 のシンボルイベントとしてインフィオラータこうべを開催し、2001年からは舞台を北野坂に移し、毎年ゴールデンウイークの風物詩として定着し、コロナ禍による中止はありましたが現在でも継続して開催しています。
そんな中、2013年よりオリーブによるまちの景観づくり活動がはじまりました。


 北野町とオリーブに何の関係性があるのでしょうか?

それは、北野に日本最初の国営農業試験場「神戸オリーブ園」あったからです。

「神戸オリーブ園」って何? それでは詳しく見ていきましょう。

先述のような過程を経て、明治の開国により、日本は世界にデビューしました。

しかし開国に至る過程で、西欧列強との力の差は歴然としたものがあることを明治政府は痛感し、富国強兵、近代化が開国した日本にとって何よりも緊急の課題でした。火急に取り組まなければ、隣国の清国がアヘン戦争により西欧列強に蹂躙された二の舞になりかねないと、明治政府には大きな危機感がありました。
そこで、政府は殖産興業政策を掲げ、軍事工業と官営工業を中心に欧米の生産技術や制度を導入して、急速な工業発展を図りました。

その一環として打ち出されたのが勧農政策です。勧農政策は大久保利通内務卿と経済官僚の前田正名主導の元、輸入抑制と輸出促進を進め、外貨獲得の具体的施策として強力に進められました。まずは輸出の可能性のある植物が、様々に試験栽培されることになりました。


明治政府の大いなる意思の元、神戸地方に暖地植物栽培試験地が設置されました。

農業試験場を設置して、オリーブ、ゴム、オレンジ、レモン、ブドウ、ユーカリの六種類を試植したところ、オリーブのみが土質に適応し、将来普及が期待されたので、明治12年に神戸オリーブ園を開園することになりました。

この時に活躍したのが、先程も経済官僚として紹介した前田正名。

神戸オリーブ園に関する一人目のキーパーソンです。

薩摩藩の藩医の子として生まれた前田正名は、青年時代五代友厚に出会い多大な影響を受けます。そして薩長同盟の密使に加わり坂本龍馬から短刀を貰ったと言われています。その短刀を携えフランス遊学し、フランス滞在中に普仏戦争でパリ市民として参戦しています。戦後、そのままパリに滞在し、パリ万博日本事務所の雇員、内務省勧業寮御用掛を務めた後日本へ帰国して、様々な政府の要職とともにパリ万博事務官庁を務め、三田育種場を創設して初代場長となりました。

そして翌年開催されたパリ万博で、パリの種苗業者からオリーブ苗を購入し日本に送り、その苗で翌12年に神戸オリーブ園を開園しました。
19年には農務省から神戸オリーブ園と播州葡萄園を委嘱され、神戸オリーブ園内に居住します。そして、その後も様々な政府の要職を務めながら、自然保護にも着目し、帝室御料地の払下げ地を購入し、阿蘇、富士御殿場、阿寒などに約5000ヘクタール以上の広大な敷地を所有し、当時日本最大の大地主となっていました。
これら、前田正名の所有する土地の自然環境を保護する目的で、後に国定公園が定められることになります。
前田正名の子孫が宝塚歌劇団OBで、前田正名が残した阿寒湖の自然保護に尽力したという事もあり、前田正名の一生は、近年宝塚歌劇団の「サムライ」という演目で上演されました。

もう一人のキーパーソンが福羽逸人です。

果樹園園芸学者の福羽逸人は新宿御苑、須磨離宮公園や栗林公園、日比谷公園等の庭園設計や日本のいちごの父として有名ですが、神戸オリーブ園で育ったオリーブで、日本で初めてのオリーブ搾油に成功しました。

福羽逸人が搾油したオリーブ油は、来日中の外国人から非常に高い評価を得ました。

福羽逸人は、後年小豆島でオリーブが栽培されることになった時、小豆島にオリーブ搾油の技術を伝えたことでも知られています。

この神戸オリーブ園が明治初期に存在していたことは専門家の間では知られていましたが、長年その場所は不明でした。近年、神戸大学の中西テツ名誉教授の研究により、国立公文書館収蔵の公文禄等を調べる中で、神戸オリーブ園の所在地や形状がわかりました。

神戸オリーブ園は、現在の神戸北野ホテル及びその南にある合同宿舎の場所にあり、現在でもほぼ当時の形状がそのまま残っていることがわかりました。

神戸オリーブ園は、当時の写真にも残っていました。

居留地と北野町は三ノ宮筋(現トアロード)で結ばれており、その道路に面して神戸オリーブ園は設けられていました。

この写真を拡大すると、オリーブの木が写っています。

神戸オリーブ園は前田正名が持ち帰った苗を使って明治12年に開園しました。

神戸オリーブ園は山本通り6丁目あたり(現在の神戸山手女子高校あたり)にも拡大しましたが、明治初期の戊辰戦争から西南の役に政府が多大な戦費を使ったこともあり、貨幣インフレ対策として松方財政においてデフレ緊縮財政政策が取られ、経費削減の為に明治19年には前田正名に委嘱されることになりました。

戊辰戦争では多くの国民の血が流され、その鎮魂の目的で設立されたのが靖国神社で、湊川神社は靖国神社の兄弟社にあたります。大政奉還や無血開城から、明治維新はスムーズになされたようにイメージしがちですが、実際は多くの国民の血が流され、多大な戦費が費やされて成し遂げられました。


 オリーブ園はその後売却され、どこに存在していたのかわからなくなっていました。

明治の神戸には、オリーブが庭木に実る情景がありました。当時の記録では、オリーブが人家の庭にも点在し、よく結実していたと記されています。このように、明治の神戸の人々が、オリーブを庭木にしていたという情景は、神戸オリーブ園の置き土産というべきかもしれません。

そして現在、当時を記憶するものとしては、湊川神社にあるオリーブの木があります。湊川神社のオリーブの木は前田正名がフランスより持ち帰った苗の一つが育ったもので、日本最初のオリーブ樹と言われています。

ただ、樹齢130年を誇る日本最古のオリーブの木が湊川神社に残っている以外、北野町からオリーブの記憶がほとんど忘れ去られてしまっていました。

様々な研究から、下記年表のような神戸オリーブ園に関する歴史が明らかになりました。


2013年、このような地域の歴史的背景を初めて明らかにした中西テツ神戸大学名誉教授の講演を契機として、地域としてオリーブを活用したまちづくりの機運が盛り上がってきました。

そこで、持続的な活動とするべく、2013年にインターナショナルオリーブアカデミー神戸を設立しました。


今までの10年にわたるインターナショナルオリーブアカデミー神戸の活動の中で、北野・山本地区の様々な所でオリーブの植樹がなされてきました。

北野坂の歩道の植栽にはオリーブが植えられ、オリーブのプランターも多数置かれています。また風見鶏の館の前や北野町東公園や山本通東公園にも、多くのオリーブが植えられています。オリーブの木は、何気なく見ていると気付かず見逃してしまいがちですが、注意して地域をみていただくと、思いのほか多くのオリーブが既に植樹されていることに気付かされることと思います。神戸北野ホテル前には、神戸北野オリーブ園のモニュメントが設置されています。

2023年はインターナショナルオリーブアカデミー神戸の活動開始から10周年となりました。


 このように、約10年前、日本最初の国営農業試験場「神戸オリーブ園」が北野にあったことが明らかになり、その背景を追っていくと、明治初期、世界デビューしたばかりの、初々しい日本の姿が見えてきました。しかし、戦後、これらの歴史は市民から忘れられ、「幻のオリーブ園」と呼ばれていました。

オリーブ園の詳細がわかるにつれ、明治の先人が未来の国の発展を願い築き上げた史実が見えてきました。また、国際都市として共生・友愛のまちづくりを重ねた神戸の歴史と伝統を踏まえ、北野町ではオリーブによる街の景観づくり活動を行うようになりました。

以上のような経緯を経て、北野ではオリーブによる街の景観づくり活動を行っています。

インターナショナルオリーブアカデミー神戸は下記HPを作っておりますので、興味をお持ちの方は是非一度ご覧ください。

オリーブアカデミーで神戸北野のまちをオリーブ樹で緑化を!|インターナショナルオリーブアカデミー神戸 公式HP (olive-academy.jp)