阪神淡路大震災から20年が経過しました。
阪神・淡路大震災は、私たちが常識と考えていたものが、いかに曖昧な根拠の上に成立しているかということを顕在化させました。
震災後、神戸に生まれたキューブは設立以来、都市居住の本質的な問題を捉える為、共同建替・共同住宅の建替・行政コンサルティングなど、積極的に被災者の再建に取組んでまいりました。
その中で得た経験から、より豊かでより確かな都市環境に向けての提案を行い、従来の枠にとらわれない柔軟な視点から、再構築することを目指しています。
大学~大学院にかけて88年までの5年間、私は神戸市灘区六甲町のアパートに住んでいました。
後日新聞で、私の住んでいたアパートでは震災後の火災により、3人の学生が亡くなったと読みました。その記事によると、南北に並行して2棟並ぶ北側の棟の西妻にあたる一番奥の部屋の学生が震災直後は存命でしたが倒壊家屋に挟まれて逃げることができず、友人の懸命の救出活動にも関わらず、その後の火災で亡くなったそうです。火災が近づく中、いつまでも助けようとするその友人に、亡くなった彼は避難するように懇願したとの事。その部屋は、おそらく私が住んでいた部屋だと思います。
震災は95年に発生したので、私が転出してからわずか7年後の出来事です。
長い歴史の中で、数十年~数千年単位で繰り返される地震の発生頻度を考えれば、7年という年月はわずか、誤差ほどの時間でしかないと思います。
それ以来、自分の命は頂いたものだと感じています。
頂いた命を、その後の人生においてどのように使うか。
私は、震災で得た教訓を活かすことが生き残った者の使命だと考え、今を生きています。
私自身、震災時には大手ディベロッパーで分譲マンションの企画・設計・販売に関わっていました。
良好な住宅を提供するという社会的役割の一端を担っていると信じていました。
震災の時、私達夫婦は神戸元町の分譲マンションを購入して住んでいました。
連休明けのあの朝、夜明け前の真っ暗な中、激烈な動きにたたき起こされました。
10階の部屋だったこともあり、凄まじい揺れで、いったい何が起こったのかわかりませんでした。
関西は地震が無いと思い込んでいたので、地震とは思いませんでした。
核ミサイルが誤射され日本のどこかに落ちてしまったのか、原発が爆発したか、どこかで日本が沈没する程大きな地震がおこったのか・・・荒唐無稽な可能性が様々に頭をよぎりましたが、それでも神戸を震源とする地震が起こったとは思いもしませんでした。
揺れが収まると、静寂が訪れました。
いつも響く暗騒音がなくなり、全く経験したことの無い静寂が訪れました。
しばらくすると、あちらこちらでエンジン音が響きだしました。
おそらく、ホテルや病院の非常用電源が稼働しだした音だったと思います。
その時、もの凄い勢いで玄関扉をたたく音がしました。一瞬、誰かが攻めて来たのかと思いましたが、気を取りなおして玄関扉の内側から尋ねると、女性の声がします。隣の部屋の電気温水器がひっくり返って部屋中が水浸しになっているので助けてほしいとのこと。まだ、真っ暗だったので、とりあえず部屋に入ってもらい、私たち夫婦と一緒に布団にくるまって、震えながら夜が明けるのを待ちました。
ようやく夜が明けて来ると、部屋は無茶苦茶。コンタクトレンズを外していたので、窓から見える景色はぼんやりとしか見えませんでしたが、昨日とは変わっている事はわかりました。
まずは何が起こったのか知る為に、10階から1階まで階段を下りてマンションを出て、周りの状況を確認しようと努めました。
マンションの前の道路は阪神西元町駅の上を通っているはずなのですが、大きな地割れとともに道路が隆起しており、ただなぬ様相を呈していました。この時点では全く通行車両はなく、消防車のサイレン等の音も聞こえませんでした。駅に行けば何かわかるだろうと思い、最寄りの神戸駅に向けて歩き出しましたが、その途中、高架の上で複数の電車が傾いて止まっているのが見えました。
前からラジオを持った男性が歩いてきたので、何が起こったのか尋ねると、淡路~神戸震源の地震とのこと。この時、ようやく地震があったことを認識しました。
地震とわかったので、一旦部屋に戻る事にし、また10階までマンションの階段を上がりました。
無茶苦茶になっている部屋を片付けていると、コンタクトレンズケースを見つけることができ、目に入れた途端、愕然としました。
南側遠くに見えていた阪神高速道路がなくなり、今まで見えなかった海が直接見えていました。
東側、西側ともに、遠くに数多くの煙の柱が立ち上っているのが見えていました。
北側に見えていた戸建住宅の瓦は全てずり落ち、瓦色から土色の景色に変わっていました。
部屋を片付けていると、突然、テレビがつきました。
そのテレビには、阪神高速道路が横倒しになっているヘリコプター映像が映し出されていました。
今まで、見たことも聞いたことも無い事態が起こっている事を認識しました。
そして、突然電話が鳴りました。
舞鶴の親戚からの電話でした。
あまりに唐突だったので、何故かタルコフスキーの映画「ストーカー」を思い出しました。
朝から何度も電話をかけてくれていたようですが、なかなか繋がらず、その時、運よく繋がったようで、灘区に住む妻の両親が無事であることを知りました。
その電話で私達夫婦が無事であることを伝えることができ、その旨を親族に報告してくれたので、ひとまず親族には私達夫婦が無事であることを伝えることはできました。
その時を最後に、かなり長い間電話は不通になりました。
ある程度片付いたので、灘区の両親の所に行く事にしました。
元町から三宮を経由して灘区まで歩いて行きました。
昨日までの見慣れた景色が一変し、見えるもの全てが戦争中のような景色になっていました。
行き交う人も、皆、呆然としていて、現実を受けとめることができていない様子でした。
生田川まで行くと、焚火を起こして集まっている人々もいました。
布団を担いで歩いている人に多く出会いました。
しかし、皆、言葉少なで表情はありませんでしたが、泣き叫ぶ人もいませんでした。
なんだか、音もなく、時間だけが淡々と流れているような感じでした。
両親の家にたどり着くと、両親は元気にしていました。
灘区は、私が学生時代に下宿していたJR六甲道周辺は大火により焼失してしまいましたが、山手は大きな火事も発生せず無事でした。しばらく水やガスは不通でしたが、電気や電話は早い段階で復旧していました。
しかし、ご近所では多くの方々が亡くなっており、両親の家が無事だったことは本当に幸運だったことを後で知る事になります。
私達夫婦は、これからしばらく、この家で暮らすことになりました。
公共交通機関がズタズタになってしまい、タワーパーキングから車を出すこともできない私達は身動きが取れず、大阪に出る事も難しかったのですが、1週間後ぐらいから代替バス等を乗り継いで片道3時間程度かければ通う事ができるようになりました。そこで、1週間後ぐらいから、当時勤めていた大阪の職場まで通う事になりました。
はじめて大阪の町に出た時は本当に驚きました。
震災前と全く変わらない日常が続いていたからです。
違うのは、神戸から出てきたと思われる、汚い格好をした人々が混じっていることぐらい。
なんだか、ひどく自分が場違いな所にいるような気がした記憶が残っています。
当時、大阪の銭湯に行くと、同じような境遇の人であふれていました。
実際に仕事を再開すると、地震前と何もかわらない日常が戻ってこようとしていました。
しかし、戦地のような所から通勤する自分の心は、震災前の日常には戻りませんでした。
妻は当時大手設計事務所に勤めていましたが、大手ゼネコン設計部に勤める学生時代の友人を通じて、神戸市の主催する震災復興窓口の立ち上げに関わるようになりました。
実際に震災復興窓口が立ち上がると、テレビや新聞では報道されない、生々しい被災地の現実が明らかになって来ました。
私は妻を通じて様々な話を聞いておりましたが、被災地の現実は、直接自らが関与しないと、本当の姿は全く見えて来ないという実感がどんどん募っていきました。
妻を通じて知り合った震災復興窓口に関わるコンサルタント、弁護士、建築士等様々な方々を通じて、今まであたりまえのように捉えていた集合住宅の問題等、都市居住における様々な本質的問題が顕在化している事を知りました。
一方、片道3時間もかけて通勤して行う業務は震災前とほとんど同じ。
被災地から通勤しているにも関わらず、被災地の事はテレビや新聞で報道される以上の事を知る事が全くできません。このままでは、自分は何も震災から教訓を得ることができない。生き残った者として責任を果たすことができないという焦りが募りました。
結局、震災の翌年にディベロッパーを円満退職し、私達夫婦とそれまで震災復興に関与していた人たちと一緒に、株式会社キューブを立ち上げることになりました。
キューブで取り組んできた、マンション建替、大規模修繕、共同化事業、コーポラティブハウス、パッケージハウス、リノベーション、スケルトン型定期借地権事業、1000年集合住宅、行政コンサルティングなど、全てはこのような考えを背景として取組んでいます。
このように、株式会社キューブは、震災で生き残った者が、その責任を果たすために、震災で得た経験を活かし、より豊かでより確かな都市環境に向けての提案を行い、従来の枠にとらわれない柔軟な視点から、再構築することを目指しています。
本日迎える震災20年を一つの節目と捉え、我々は生かされているという初心を忘れることなく、今後とも自らの使命に真摯に取り組んでいきたいと考えております。
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