2017年1月15日日曜日

フォーラム「北野町の過去・現在・未来」




神戸北野から発信する持続可能な集合住宅 フォーラム

「北野町の過去・現在・未来」
・・・・・・ 北野・山本地区をまもりそだてる会 会長 浅木隆子様



あけましておめでとうございます。

北野町の過去・現在・未来という事ですが、三世代を語るには、時間があまりに短いので、少しさわりのお話をさせて頂きたいと思います。 


北野町は、もともと本当に落ち着いた住宅地だったのですが、NHK朝のテレビ小説「風見鶏」の放映以来、いきなり観光地に変わりました。

地図で見ますと、このあたりが北野・山本地区です。戦後、焼け残ったところに異人館が点在しており、一部が伝統的建造物群保存地区にも指定されました。「北野・山本地区をまもりそだてる会」は、この、約45ヘクタールで2700世帯、540の事業所が所在する地域において、6つの自治会と婦人会、3つの商業者組織から成り立っております。

今朝、日経新聞を見ておりましたら、今年は明治150年になると書かれていました。今年、神戸市が神戸開港150周年というのは、明治の開国のとき、明治元年の1月1日に神戸港が開港し、そこから150年の時が経ったということでもあります。当時を振り返りますと、開港当時、この地域は住民250人ほどの、本当に小さな村「北野村」でした。



当時、まだ居留地の整備が出来ておりませんでしたので、外国から来られた方々の住む所がありませんでした。そこで、明治政府が雑居地という事で、山沿いの「北野村」あたりを外国から来られた方々の住むところとして指定しました。



以来、今までに、異人館は三度の危機を経験しております。

一度目は戦争。戦前は300棟ぐらい異人館があったのですが、戦争をはさんで減っていきました。

二度目は、昭和40年代のマンション建設ラッシュ。北野町の異人館の敷地は広く、300坪ぐらいある為、異人館を壊してマンション建設が盛んに行われるようになりました。その時、異人館博士と言われている坂本勝比古先生が止めに入り、異人館は残さないといけないという風潮が出てきて、規制等も整備され、次第にマンション建設ラッシュも下火になりました。当時、異人館の廃材は、乾燥していてペンキを塗っているのでよく燃えるということで、解体現場にお風呂屋さんがどんどん廃材を取りに来るようなこともありました。その時に異人館はずいぶん壊されて、それが二度目の危機です。

三度目の危機は、あの阪神淡路大震災です。どんどん、異人館のように古いものが壊されていく時代になりました。
IPS細胞が発見されて、人間の体が再生できる時代が来ると言われています。しかし、異人館のように古いものは、一度潰されたり、燃やされると、その断片があろうとも再生できません。私達は、異人館そして和風建築も含めて、この街の古いものをまもりそだてて行こうとしています。


こちらは明治18年の地形図です。 本当に今とほとんど変わりません。手前のところは居留地ですね。

居留地は、きちっと道が整備されています。そして、雑居地に指定された北野町のあたりは、元々ため池と畑だった所に、空いてる所、空いてる所に建物が建って行ったので、整備された道が無いんです。それが、北野町の特徴的な街並みを形成しています。



茶色のあたりが居留地。そして、緑のあたりが雑居地に指定された、北野・山本地区です。

居留地と雑居地を結ぶ、この道がトーアロードです。トーアロードを通って、北野・山本地区に住んでいた外国人達は居留地に通いました。次第に、住むところとビジネスする所を分けて、北野町に住んで居留地で仕事をするようになりました。

居留地の横に南京町があります。居留地には、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、スペインの当時の列強五ヶ国以外の人は住めなかったので、彼らの働くところからちょっと出たところに中国の人が住みだして、今の南京町が生まれたということです。 



これは明治2年頃の北野村の写真です。真ん中の、こんもりした所、これが生田神社です。そして手前の道が、北野天満神社の前の道になります。この道手前の沼地に、現在、風見鶏の館が建っております。これは風見鶏の館が建設される前の、古い貴重な写真になります。生田神社の左の八の字のように見えているのは(そこは今の東門筋と北野坂の下の方にあたるのですが)当時、競馬場でした。この時代の外国人の方は、競馬が好きで、毎月のように競馬の競争があって、北野坂を下りたところに厩舎もあったそうです。

そしてこれは、諏訪山から東を望む、明治中期の写真です。異人館が凄く沢山あるのが見えると思います。
そして昭和22年、空襲で焼け残った場所が、現在の伝建地区として指定された場所です。神戸を空襲する際、アメリカ軍はもう勝つのが分かっていて、外国人の住んでいる場所を外して空襲したのではないかという説もあります。

これは昭和38年頃の写真です。この絵を描いている後ろ姿、若いんですけど、異人館画家として有名な小松益喜先生です。

右上は昭和52年の写真ですが、現在も残っていてレストランとして利用されています。

右下の写真はシュエケ邸です。

左上の写真はフロインドリーブのパン屋さん。フロインドリーブのパン屋さんは、最初オープンした頃は、ハンター坂の横のところにありました。かつては外国人がこういう風に街に沢山いて、トーアロードを通って居留地に歩いて行きました。これらは、そのことがわかる、貴重な風景写真です。
そして、約20年前に起こったのが阪神淡路大震災。無残な異人館。しかし、写真を良く見て頂くとわかるとおもいますが、異人館自身が凄くつぶれたというより、北野町は岩盤が強かったので、全壊はほとんど無かったんですね。レンガ造の塀が崩れたり、煙突が落ちて家の中のものをつぶすような被害が多かったんです。シュエケ邸は神戸市と国の予算によって完全に復興されましたし、風見鶏の館も一旦レンガを全部外し、表と裏を入れ替えて再建しております。

現在、地域では、花と緑を増やす運動のシンボルイベントとして、毎年5月に北野坂全面に天然芝を敷き、三日間チューリップの花絵で彩る、インフィオラータというイベントをしております。これは、21年前から始めて、今現在も続いております。また今年も5月の3日、4日、5日の連休中に開催致しますので是非お越し下さいませ。

国際交流の一環で、200年以上も前からインフィオラータを続けているイタリアのジェンツーノ市からインフィオラータの作家を招き、このように作品を作っていただいたこともあります。とても芸術的な作品を作っていただきました。




最後になりましたけれども、北野町には明治12年に日本初の国立オリーブ園があったことが最近わかりました。そしてその場所が最近特定され、トアロード沿いの、現在、北野ホテルのあるところだったということがわかりました。約三千本近いオリーブが植えられ、ここで日本で初めてオリーブオイルの搾油に成功した記録が残っています。そしてそれが全国に広まりました。
三年前には前市長もいらっしゃって、北野の風見鶏の前に記念植樹を致しました。現在、北野町だけで無く、神戸市全体としてもオリーブを植えていこうという機運が高まってきています。そして、今回建設された「神戸ハウス北野」ですが、こちらにもご協力頂きまして、多くのオリーブ樹を植樹いただきます。このように、新しく北野町に出来るビル、住宅には、オリーブを出来るだけ植えてくださいとお願いしております。

神戸オリーブ園のパンフレットが本日配布され、皆さんのお手元にあると思いますが、そこには素晴らしい歴史をきっちりと書いてありますので、是非ご覧になって頂けたらと思います。 
(注:このパンフレットは神戸北野美術館にて無料配布中です)



北野町周辺には15以上の宗教施設が集まっています。これだけ密集しているにもかかわらず、みんな平和に、信者も住む、教会もあるという、世界では不思議な地域であると言われています。今でも世界は宗教で戦争が起こっているのに、この北野は対極にあります。ですので、今度はユネスコに文化遺産として登録してもらえるように運動していこうと考えております。皆様のところに宗教施設の地図を入れておりますので、是非ご覧頂けたらと思います。

 最後に、北野町の良さの元は小径です。小径がコミュニケーションを育む種となっているのですが、もうお時間のようですので、こちらに関しては後ほどのパネルディスカッションの時にもお話ししたいと思います。時間が限られていたため、早足になってすみません。本日は少しさわりをご紹介させて頂きました。ありがとうございました。

0 件のコメント:

コメントを投稿